かぎろひNOW2013
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■纏向遺跡の展示   2013年02月22日

最近は、広告スポンサーさん(ありがとうございます<(_ _)>)に、かぎろひ誌を届けて回っています。

2月21日は三輪から桜井方面へ行きましたが、変わりやすいお天気でしたね。
箸墓近くでは突風が、三輪から桜井へ来る頃には雨。
ええっ、そんな予報やったっけ、傘持ってないわ。コンビニでビニール傘を求め、多武峰街道を上る頃には雪に。

所用を終えると、青空と陽ざし。

近鉄大阪線で香芝方面へ向かう途中、もやに覆われたような二上山のふたこぶあたりの雲間に太陽がのぞき、ハッとする光景に出合ったのですが、撮れず。

電車に乗り合わせた人たちとおしゃべりが始まったりしました。
「いつも見ているけど、あんな二上山、初めてよ」
「撮れた?」


こうしてあちこち移動していると、新しい情報や思いがけない出会いなど、ブログネタはいっぱいあるのですが、アップが追いつかなくて、残念。

で、その中から、まず1つ。

三輪そうめん山本さんの、考古資料展示のスペースが広くなっていました。纏向遺跡に特化されています。
桃の種なども。




卑弥呼の居館かと注目を集めたとき()と、その後の桃の種がいっぱい見つかったとき()の出土品のようで、興味深く拝見しました。


そうそう、建物群(D、C、B)が軸を揃えて東西に一直線に並ぶ点でも注目されたのでしたね。



おおっと、先日(2月3日)の纏向遺跡の現説のレポートもまだだったことを、思い出した次第^^;

建物DCBの延長線上に想定されていた建物Aが、確認できなかったという報告がありました(で、終わったらアカンね。いずれ)。


山本さんの真東には、あの箸墓がどんと横たわります。
先日、調査が入りましたね。


■菖蒲池古墳 現地説明会   2013年02月25日

やっと休みがとれそうな2月23日、“ほこりたかき”わが家にため息をつきながら、ああそれでも行きたい「菖蒲池(しょうぶいけ)古墳」(橿原市)の現地説明会。

菖蒲池古墳と言えば、あの「聖なるライン」に必ず登場する、気になる古墳なのです。
藤原京の朱雀大路の南延長線上に、天武・持統合葬陵があり、ほぼライン上に中尾山古墳、文武天皇陵などとともに、菖蒲池古墳の名前が挙がります。

岸俊男先生が指摘され、やがて通説のようになったのでしたね。

明日香村とのちょうど境目ぐらい。
↓明日香村の標識を見て左へ、坂道を上ります。


菖蒲池古墳は、昭和2年に国の史跡に指定されていますが、発掘調査はやっと平成21年から始まったばかり。

説明板を読んでも、円墳か方墳か、規模もわからない、と書いてあります。


調査によって、二段築成(下段の1辺が30m)の方墳であることがわかりました。
7世紀中頃のようです。


今回、もっとも注目を集めたのは、東掘割の外側で見つかった石敷ではないでしょうか。
古墳と同時期に築かれたとみられています。



もう少しアップにしてみますね。

西側(向かって右)に、大淀でとれる結晶片岩が、東側には飛鳥川、寺川、高取川の川原石が使われているそうです。
東側の土の中にも石が見えていますから、石敷はもっと広がりそうですね。

この時代に見られる石敷と言えば、そう、宮殿とか庭園…
ただ、宮殿のそれが石畳状に整然と並んでいるのに比べると、石と石の間にすき間があって土の見え方が大きいという違いはある、と説明がありました。

石敷の西側には、版築状の盛土と掘立柱建物も見つかっています。



掘立柱建物は東西15m(5間)、南北9m(4間)以上で、柱間は3m(10尺)もある大きなものですが、建物は石敷を埋めた後のものだとか。用途などはわかっていません。


では、古墳全体の平面図をご覧ください(当日の掲示より。赤の文字はかぎろひが付加)


石敷が、東の端のほうにあることがわかりますね。


横断面(当日の資料より。赤の文字はかぎろひが付加)


古墳に石敷遺構が確認される例は珍しいそうですが、どうやら、この古墳が異例というよりも、ほとんどの調査は墳丘に焦点が当てられていて、外側にまで及んでいないから、かもしれないということのようです。

「この石敷に、古墳の外側まで気にしなさいと教えられたような気がします」と話されたのが印象に残りました。


石室内には家型石棺が2つ見つかっており、そのまま置かれています。
普段は金網越しにのぞくのですが、この日は特別に鍵が開けられていました。



パッと見ただけでも立派ですが、細工が施され、内部には漆が塗られていたそうです。

7世紀中頃に、同時に2人が葬られたとなると、被葬者は限られてくるようです。
蘇我倉山田石川麻呂と、息子の興志(こごし)という名前が、先日の新聞にも挙がっていましたね。

特定はともかく、古墳造営にあたって、石敷や版築など当時の最高水準の土木技術が使われていることは、被葬者を考える大きな手がかりになりそうです。


古墳は小高い丘陵地にあります。
↓南を向くと


↑真南のこんもりしたのが、天武・持統合葬陵

↓西は


二上山、右端にちょこっと見えているのは畝傍山、その右手前が植山古墳。

バツグンの見晴らしと言いたいのですが、うーん、それにしても、乱開発……ですな。


※菖蒲池古墳→橿原市のサイトを参照ください。→こちら
  


■興福寺西室の発掘調査 現地説明会   2013年09月29日

6月から発掘調査が進められていた興福寺西室(にしむろ)の現地見学会が9月28日に開かれました。
近いのはやっぱり便利、自転車でサーッとのぞいてきましたのでご報告しまーす。

「西室」って?
お坊さんたちが生活する場所が僧房で、長い建物を小部屋に仕切って使われていたそうです。たいていは講堂を囲むように東・西・北にあることが多く、三面僧房(坊)と呼ばれていました。
東にあるのが東室(ひがしむろ)、北は北室(きたむろ)…というわけですね。

興福寺の場合は、中金堂と講堂を取り囲むような三面僧房だったようです。

東大寺の三面僧房は、講堂を取り囲んでいましたね。→2011年の発掘調査icon52

で、今回は、三面のうちの西僧房(西室)が発掘調査されていたということになります。

←興福寺伽藍配置図と今回の調査区(当日配布資料から)


図の中央あたりが今回の調査区

では、現場を見てみましょう。


↑東から。向こうに見えているのが北円堂です。

↓北から見ると、右手奥が南円堂、左に中金堂復元工事の覆屋がちょっと見えています。



←遺構平面図(当日配布資料から)

西室は720年代に建立されましたが、8回も焼失、その都度再建されたようですが、享保2年(1717)に焼けたのを最後に、その後は建てられることがなかったと言います。




















↓見つかった礎石。長径90~115㎝の安山岩製の自然石


小型の礎石や礎石据付穴・抜取穴も見つかりました。



↓拡張区では、南と東の端が確認されています。


これらの遺構から、建物規模がわかりました。
南北が10間、柱が11本。東西は4間、柱が5本。南北約62.7m、東西約11.8mということです。
南北10間のうち、南側の2間だけが16尺、北側の8間は22.5尺とやや広い。

従来の復元案では、南北が11間とされてきましたが、今回の調査で異なることが判明しました。


調査区を南北に縦断する瓦の列が目をひきました。



これは暗渠だそう。深さ20~30㎝の素掘りの溝に、瓦質の土管を置き、その上に平瓦や丸瓦を乗せて、土で埋めたものとのことです。


土器溜りからは、ザクザクと大量の土師器が出土。どうやらまとめて廃棄されたものらしい。



出土した土器の一部が展示されていました。
奈良時代から近代までの土器や陶磁器類が出土したようですが、いちばん多かったのが鎌倉時代から江戸時代の土師器の小皿。いわゆる「カワラケ」です。




当日の資料。




■飛鳥京跡苑池(第8次調査)現地説明会   2013年11月28日

2013年11月24日、「史跡・名勝 飛鳥京跡苑池」(弟8次調査)の現地説明会が開かれました。

早いもので、もう第8次調査に入っているのですね。
初めて、この遺構が公にされたのは1999年。ワタクシは小学校低学年の娘付きで現地説明会に。その娘も今や、1児の母親ですから、時の流れを感じないわけにはいきません^^; 
地道な発掘調査に敬意と謝意を表したいと思います。

まずは、当日配布資料から、航空写真と遺構平面図をご覧ください。
赤く塗られているのが、今回の調査区です。


7回にわたる調査で次のことがわかっています(配布資料と説明から簡単に)。
●苑池には、南北2つの池(南池、北池)がある。
●南池は南北約55m、東西約65m、面積2200㎡で五角形。池の底には石が平らに敷きつめられ、池の中には中島、石積み島、4つの石造物があった。3つの石造物は水が流れ出る、噴水のような構造。
●北池は南北46~54m、東西33~36m、深さ約3m、面積1450㎡。北東隅に階段状の施設がある。池底には石が敷きつめられている。
●苑池の東側には砂利敷の広場がある。
●水路から苑池の機能などを示す木簡が出土。

これまで何度か現地説明会に行ったのですが、ブログを初めてからは1回だけだったのかな→5回目

今回の大きな成果は、南池にある中島の全容がわかったこと、でしょうね。
↓こんな苑池だったようです!

復元模型



復元図


中島は東西約32m、南北約15m。南北に張り出しをもつ複雑な曲線状。張り出しの長さは南が6m、北が3mと非対称。
石を積んで護岸整備し、中は盛り土、松が植えられていたとみられています。

この中島の形、特異ですよねえ。ひとくちでわかりやすく説明せよ、と言われたらどう表現します?
新聞各社さんも悩まれたのでは? 楽しみに目をとおしてみますと。
毎日新聞……雲のような複雑な曲線護岸
朝日新聞……複雑な曲線の中島
産経新聞……(形には触れていず)
読売新聞……(形には触れていず)
奈良新聞……アメーバのような形
日本経済新聞……中島はX字形と判明。…同時期の他の庭には見られない珍しい曲線構造

毎日さんと奈良さんに座布団1枚、ナンチャッテ^^;
いちばん印象に近いのは「雲」カナ。池に映る雲を見てデザインがひらめいた! とか…


↑図の右手上に建物がありますが、南池から6m上がった南東の高台には、2棟の掘立柱建物跡が見つかっているのです。



池を眺めながら宴をしていたのでしょうか。
この場所から、池を眺めてみます。



おお、ええ感じですね。

上の図は、西側から眺めたところですので、ちょっと西へ回ってみましょう。


↑右手、小さく人が見えている所に建物があったのですね。

中島の北側に柱が2本、見つかりました。


別に2本の柱が抜き取られていることも確認され、4本の柱がセットになっていたとみられています。
水面に張り出すような形で、木製の施設がテラス状になっていた可能性が大。

また、この柱の変色状態から、水深は30㎝ほどと浅かったこともわかり、船を浮かべて遊ぶような池ではなく、敷きつめた石を美しく見せていたと想像することができます。


飛鳥時代に、すでにこんな広大でおしゃれな庭園がつくられていたことに驚かされますが、上の写真に見える水は、わかりやすくするためにわざわざ入れたのではなく自然に湧いてきたとのこと。つまり、そういう地形を選んで苑池をつくったんですね! しかも、南北に水路がついていて、池の水をそばの飛鳥川に排水する機能があったようです。

すぐ東側の宮殿から飛鳥川にかけて、次第にゆるやかに下っていく土地をうまく利用して、こんなすばらしい苑池をつくる古代人の知恵と技術を感じるにつけて、現代文明ってほんとうに進化し続けているのだろうかと、ふと疑いの気持ちがふつふつとわいてくるのを覚えました。

古代人は、天や地、自然に畏敬の念をもち、それらの声に耳を傾けながら、何かをつくったはず。

科学技術を武器に、ともすれば自然の地形を崩し、強引にねじまげて道路を、家をつくってしまう現代人。もっと謙虚になって、古代人に学ばなければならない時代がきているのではないかなあ、な~んてことを、飛鳥路を歩きながら、しみじみと思ったのでした。
 



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