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かぎろひNOW2014~

■春日大社東塔跡 現地説明会    2010年12月18日

12月17日の朝刊で、春日大社の東塔跡が発掘調査されていて(奈良国立博物館敷地)、その現地見学会がこの日から21日まで行われることを知った。

ちょうど午前中に機関紙を納品(半分だけ^^;)する約束になっていたので、近鉄奈良駅近くの事務所へ立ち寄り、「これから奈良博の現地見学会をのぞきますのでこれで失礼しま~す。長蛇の列だったらまた出直すつもり。近いと助かるわぁ。では!」と言って、そそくさと立ち去る。いつもなら油を売ったりするのだけどね。

かつて、春日大社には東西両塔があった。
神社に塔? と一瞬怪訝に思いがちだが、神仏習合の影響で建てられたとみられる。

春日大社の一の鳥居からちょっと参道に入った北側に西塔と東塔が並んでいたということは、すでに昭和40年(1965)の発掘調査で明らかにされているし、『春日宮曼荼羅図(かすがみやまんだらず)』にも描かれている。
興福寺の五重塔とほぼ同じ規模だったという。高さ約50m。

奈良国立博物館の敷地内に残る礎石。西塔跡(左)と東塔跡



『春日宮曼荼羅図』に描かれた春日東西塔

発掘現場資料によると、西塔が建てられたのは平安時代の永久4年(1116)、時の関白・藤原忠実の発願による。東塔のほうは保延6年(1140)、鳥羽上皇の発願。

しか~し、あの平重衡の南都焼き討ち(治承4年=1180)で消失する。

めげずに再建。
東塔は鎌倉時代の建保5年(1217)に、西塔は宝治年間(1247~1248)によみがえる。

ところがっ、室町時代の応永18年(1411)、なんと雷火に遭う。とうとうそれきりになってしまったのだ。

今日(17日)は春日若宮おん祭りのお渡りの日だから、奈良にはたくさんの方が来られている。こういう時にたまたま発掘現場を見られるなんてラッキーだよね。きっといっぱいの人かも、と思いながら、奈良国立博物館へ急いだ。

ちょうど10時に到着。
ん? あれ? なんで?
現場には誰もいなかったのだ。

この前の明日香村とはえらい違いではないのぉ。
古代が人気ってことなのかなあ。明日香村だから? それとも新聞報道の仕方?

ともあれ、ワタクシはおかげさまで、発掘担当の方とボランティア解説員のお2人からレクチャーを受けるという幸運に恵まれたのだった。

『春日宮曼荼羅図』からもわかるように、両塔は南面に回廊、東・西・北は築地塀で囲まれて、院(東塔院、西塔院)を形成。

今回の調査は、東塔院の北東隅の推定地を中心に発掘、それが確定されたというわけだ。
発掘したのはこのあたり(すいません、勝手に書き込んだのはワタクシ)。



発掘現場



写真手前、割れた瓦が一直線になっているのがわかります?
これが雨落溝(あまおちみぞ)と見られ、L字型に検出。

この写真ではわかりにくいので、発掘調査現場に掲示されていた写真を借りると、ねっ。
溝の幅は約1m、深さ5~20㎝。検出したのは、東西方向で7m、南北方向で7.5m分。

雨落溝に溜まっている瓦は、築地塀の屋根に葺かれていたもの、ってことになるのだろう。
というわけで、ここが東塔院の北東の端と確定~

写真の右上に見えているのが、「なら仏像館」。
西から見ると、目の前に奈良国立博物館東館。



春日東塔院 遺構平面図


※現地見学会は21日まで。

※今回の発掘は、奈良文化財研究所と奈良国立博物館による初めての共同調査。

※ただいま奈良国立博物館で開催中の特別陳列「おん祭と春日信仰の美術」で、上記の『春日宮曼荼羅図』が展示されています。

  


■大田皇女の墓  2010年12月13日

牽牛子塚(けんごしづか)古墳が八角形であることがわかり、斉明天皇陵ということでほぼ確定されたのは、今年の9月だった。

今度はそのすぐそばから別の石室が見つかったという発表があり、12月11日と12日に現地見学会が行われた。越塚御門(こしつかごもん)古墳と名づけられたという。

12日、高野山麓の実家からの帰り、近鉄吉野線飛鳥駅で途中下車。
思っていたより、ス、スゴイ人!



『日本書紀』には、天智6年、斉明天皇と間人(はしひと)皇女を合葬し、その前に孫の大田皇女を葬ったという記述があり、これを裏づける発見ということになったわけだ。

大田皇女というと、あの大津皇子と大伯(おおく)皇女の実のお母さん。
鸕野(うの)皇女(=持統天皇)の実のお姉さん。お父さんは中大兄皇子(=天智天皇)だが、母親・遠智娘(おちのいらつめ=蘇我倉山田石川麻呂のむすめ)を幼くして亡くした姉妹は、2人とも大海人(おおあま)皇子(=天武天皇)の妃となった。

大田皇女は、幼いわが子(大津・大伯)を残して逝く。

皇女の胸のうちを思うだけで…(T_T)
1300年以上の時を経ても、ワタクシはいちおう人の親として、皇女の気持ちを身近に感じてしまう。

もし、こんなに早く大田皇女が亡くならなければ、大津皇子もあんなことにはなっていなかっただろう。もしかしたら、持統ではなくて、お姉さんが天皇になっていたかも。
う~ん、歴史は変わっていたかもなあ……。

行列に並びながらそんなことを考えていると、空想はとりとめもなく広がっていき、待ち時間も苦にならなかった。

風は少し冷たいとはいえ、空は青く、陽ざしはやわらかい。



明日香ののびやかな風景のなかで、気分もリフレッシュ。

約1時間並んで、見学は10分くらい^^;

今回の発掘現場



当日いただいた資料によると、埋葬施設は石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)を使用した南に開口する刳り貫き式横口式石槨とのこと。ドーム状だったとわかるそう。


牽牛子塚古墳前の石碑と、そこからみた越塚御門古墳
ほんとうに目と鼻の先だ。




パンフレットから(↓)




越塚御門古墳から東を見る。


明日香を俯瞰する絶好の場所、本当におばあさまの近くでに眠っていたことがわかり、どこかホッとするものがある。

休憩所で茶がゆのサービス(100円とは安い)。


大田皇女に思いをはせながら、ゆっくりといただいた。
わぁおいしい! いい香り。
奈良県産新米だそう。身体はほこほこ、元気がわいてきた。

休憩所から下を見ると、まだ長蛇の列が続いていた。




■纏向遺跡で大量の桃の種  2010年09月21日

9月19日、高野山麓の実家からの帰り、JR桜井線(あ違った、万葉まほろば線、まだ慣れてなくて^^;)巻向駅で下車、纏向遺跡第168次調査の現地説明会へ立ち寄った。そう、新聞紙上ではモモが話題になっていた、あの調査地。

午後1時30分、朝夕はめっきり涼しくなったとはいえ、陽ざしは真夏なみ!
昨年の現説とはうってかわりスムーズ。この時間帯がかえってよかったのかしら。



今回の調査地は、昨年11月、卑弥呼の居館かと騒がれた所の南隣の部分。
上の写真の奥(北側)、右手にビニールシートが見えるあたりが昨年の調査地。
黄色の柱が、その南端のライン。

平成20年度、21年度、22年度の遺構配置図
今回の調査地は右下の部分。


桃の種が2000個以上も、同じ穴から見つかった。
現在、土壌を洗浄中なので、総数は未確定とのこと。

上の写真の説明者が立たれている所、出土物はほぼこの穴から見つかったそう。

大量の桃の種


現代の桃とは違い、小さいものらしい。スモモぐらい?

祭祀に使われたのではないかと考えられているが、その理由として
●見つかった桃の中には、熟れていないものも結構たくさんある(食べたのではない)。
●果肉が残っているのもある。
●竹で編んだ籠も同時に出土、そこにも桃の種を確認。
●桃は古代祭祀で供え物として用いられた。

竹製籠と、右はそのアップ。桃の種がわかるでしょ。
竹籠に桃を盛ってお供えしたのではないかという。



その他の出土物からも祭祀行為がうかがえる。
ミニチュアの土器、黒漆塗りの弓、獣骨など。


ほとんどの出土品が故意に壊されたと見られる状態で出ているのも祭祀行為が考えられる理由。

つまり、祭祀に使われたものは再利用されることはなく、壊して埋めるのが慣わしなのだそう。
で、祭祀を行った後に道具類を壊し、穴まで運んで捨てられた可能性が大きいという。
今回はその穴が見つかったということになる。

建物を囲むとみられる柵列がこの穴と重なる(穴の北端は柱列のラインと重なる)ことから、建物を撤去した後に穴を掘ったということがわかった。



説明者の足元に見える白い棒が柵を表す(黄色は柱)。穴を越えて左のほうへ続いている。

西から見ると。白い棒が柵のライン。



ということは、建物が取り壊された後、「マツリ」が執り行われて、穴が掘られ、使われた道具類を壊してその穴へ投棄した、と考えるのが自然なようだ。
もっとも、どのような意味あいをもって祭祀が行われたかはわからない。

とはいえ、すぐに、卑弥呼と結びつけたくなってしまうのではあるが…^^;

調査地東から西を見る。


北から南を。稲穂が美しい。今度はこの田んぼが調査されるのだろうか。



それから「今回は桃ばかりクローズアップされていますが」と笑いながら、実は発掘担当者として注目している出土品があるという説明があった。

大量の桃が出土した穴からではないが、小さな銅鐸の破片が見つかっているという。
銅鐸自体は、比較的大型のものと考えられている。



昭和47年に実施された第7次調査で同じような銅鐸の破片が見つかっていて、今回のものとも関連がありそう、ということらしい。

今後、発掘が進むと、銅鐸のかけらがどっと発見される、ということもあるのかなあ、と思いながら調査地を後にした。想像がふくらみますね。

暑いなか、丁寧な説明をありがとうございました。
汗をぬぐわれる発掘担当の橋本輝彦さん(桜井市教育委員会)。



ワタクシはこの日、懐かしい人とバッタリ。

国道沿いの喫茶店でつもる話を。
Kさん、ごちそうさまでした<(_ _)>
 


■牽牛子塚古墳 現地見学会   2010年09月11日

新聞の一面で、牽牛子塚(けんごしづか)古墳が八角形と確認され斉明天皇陵に特定されたという記事は、高野山麓の実家で読んだ。

現地見学会は11日と12日、わぁ~い、奈良へ帰る日に立ち寄れる! ラッキー

11日、南海高野線、JR和歌山線、近鉄吉野線と乗り継いで飛鳥駅に降り立ったのは11時頃。

牽牛子塚古墳遠望(左手のこんもりした木の後方)。人の列がかすかに見える。



センセーショナルな広報のわりには人が少ないな、という印象。暑さのせい? 

おかげで30分も待たずに墳丘へ行くことができた。


墳丘(配布資料から)


以前、春にこの古墳を訪ねたとき、小さなスミレの花の群生が墳丘をおおっていたのが忘れられない。
(何度か行って写真も撮ったはずなのに、残念ながら見つからない^^;)


宮内庁は、高取町の車木ケンノウ塚古墳を斉明天皇陵と定めているが、専門家の間では、もうかなり久しい以前から、この牽牛子塚古墳こそが斉明陵だと信じられていたように思う。

その理由にはいろいろあるが、1つが石室。


内部が2室に分かれており、斉明女帝が娘の間人(はしひと)皇女と合葬されたという『日本書紀』の記述と一致する(左の写真は配布資料より)。


飛鳥資料館図録第29冊『斉明紀』にこんな写真が載っていた。
西室(左)と東室


大正3年の発掘で、麻布を漆で固めて作った夾紵棺(きょうちょかん)の一部が出土していることも、斉明陵であるという1つの裏づけとなっていた。というのも、夾紵棺はこれまでの出土例(天武・持統合葬墳や聖徳太子墓など)から天皇や貴人に用いられると見られるため。

大正3年には、七宝飾金具、玉類、人骨なども出土しているという。


左は、七宝飾金具
(飛鳥資料館図録『斉明紀』から)


西から見た発掘現場(配布資料から)


墳丘のすそから見つかった石敷きの列は、見事に整然と並んでいて美しい。
二上山の凝灰岩切石だという。
曲がっているところの角度が135度で、8角形というのがわかるのだそう。



また、埋納施設の周りには、巨大な柱状の切石を並べていたことも確認された。

※現地見学会は12日も行われる。


※斉明天皇
天智天皇・天武天皇の母親。
夫・舒明天皇の死後第35代皇極天皇として即位。
大化改新で弟の孝徳天皇に譲位したが、その死後は重祚して第37代斉明天皇となった。
国内では乙巳の変、国外では東アジア情勢が極度に緊張した11年間、天皇の座にあった。大規模な土木事業を好んだ。晩年、百済救援に出兵し、九州朝倉宮で崩御した。


■中西遺跡 現地説明会  2010年08月08日

8月7日、京奈和自動車道建設に伴う発掘調査で弥生時代前期の水田と森林が見つかった中西遺跡(御所市條)の現地説明会へ行ってきた。

発掘現場(テントが見えるあたり)。向こうに見えるのは国見山。



手前が水田、その向こう(南)が森林の跡


洪水によって一気に埋まってパックされたため、埋没した時の状態のままだという。
洪水砂は厚さ1.0~1.5m




水路によって、水田(北側)と森林が隔てられている。

水路は西から東へ流れる。


昨年度の調査と合わせると、広範囲に水田耕作が営まれていたことがわかった。
これまで、弥生時代前期の水田は、元の地形を変えない小規模なものだったと考えられており、そのイメージを一新するものとなった。







森林の様子 南から(左)と北から



東から見ると向こうに、金剛・葛城の山。写真に見えるのは金剛山


根を張った状態のままの樹木が200本あまり確認された。
樹種もさまざま。左は樹種を表すグラフ


多い順から、ヤマグワ、ツバキ、カエデ、イヌガヤ…


ヤマグワは高杯に、イヌガヤは弓に使われることが多いという。

大きなエノキの切り株!!
焼かれた跡もくっきり。


切り倒す前に焼いたこと、人の腰の高さ(約80㎝~1m)ぐらいで伐採したこと、などがわかる貴重な資料。

足跡もたくさん残っていた。右端は動物の足跡


木の周りを歩いた足跡


出土品


復元イメージ図


午前中とはいえ、皆さん汗を拭きながら参加。

「こんな暑い日には、弥生人も森の中で木の切り株に腰をかけて休んだのではないでしょうか」という言葉が大いに共感できた。

約2400年前の弥生時代前期がぐぐっと身近になった現地説明会であった♪

説明してくださった発掘担当(橿原考古学研究所)の方は若い女性。
ワタクシの現説歴(奈良県)では、初めての女性だった(京都では経験あり)。
この世界にも女性がどんどん進出しているということなのだろう。

これからも期待していま~す


※橿原考古学研究所
橿原市畝傍町1番地
TEL0744-24-1101
http://www.kashikoken.jp/
  


■順慶さんによる筒井城跡発掘調査 現地説明会   2010年03月15日

戦国時代の大名、筒井順慶の居城であった筒井城跡(大和郡山市筒井町)では、大和郡山市教育委員会によって、平成13年度から学術調査が進められている。

今年は2月1日から、筒井城の中核部(主郭部)の発掘調査が行われており、3月14日(日)、その成果を一般に公開する現地説明会があった(発掘調査は3月31日までの予定)。

近鉄橿原線筒井駅から北東へ5分ほど行った所。




古代遺跡の現説に比べると、見学者は少ないのは想像どおり。

でも、サービス満点のたいへん楽しい説明会だった。
今までいっぱい行ったけれど、こんなの初めて♪

まずは、説明された発掘担当者の方はこんないでたち。


「自己紹介していいですか。私、筒井城主の筒井順慶と申します。」という挨拶から始まった。(よっ、順慶はん! オトコマエっ!!)

この一言で、見学者の心をわしづかみ。
続けて
「この甲冑は江戸時代のものなんですが、昔の人って小さかったんですね。私も小柄なほうですが、これをつけると胸が苦しいほど。お聞き苦しいのは、甲冑のせいです。」
場がなごむ~。


写真は出土した下駄。


小さいので、最初は女性のものかと思われたそう。
でもこの甲冑を身につけて、「男性のものという可能性もある」と実感されたとか。

今回発掘の目玉は、堀が検出されたこと。
深さ2.5m、V字形で、いわゆる薬研堀(やげんぼり)と言われるもの。

堀からは、神事などで用いられる土器(かわらけ)がたくさん見つかった。
意図的に並べられたと見られる土釜も出土。

堀は人為的に一気に埋め戻されていること、その時に何らかの祭祀が行われたということがわかるのだという。







興福寺の僧侶、多門院英俊(たもんいんえいしゅん)[この日の順慶さん曰く“メモ魔”]が著した『多門院日記』の記述を裏づける発掘とか。

『多門院日記』には、天正8年(1580)8月、織田信長は、大和(奈良県)では郡山城以外の城は破却せよという命令を下したことが記されている。

筒井城も8月17日~20日破城実施。

今回検出された堀は、埋没時期からみて記録にある「筒井破城」の際に埋め戻されたものと判断してよかろう、とのことだ。

これまで文献でしかわからなかった織田期の破城の実態が発掘調査で確認できた貴重な例だと言える。

この日の説明会は午前中のみ。
ワタクシは2回目の説明にセーフ。

この時点で、見学者はだいぶ減っていたもよう。


すると、順慶さん「人が少なくなりましたので、出土品の説明もしましょうか」

ラッキー~

出土遺物


順慶さん、お疲れさまでした~。
ありがとうございました。

この後、ワタクシはお礼と感謝をこめて、順慶さんのお墓参りをすることに。


筒井城跡からもう少し南へ行った長安寺町にある筒井順慶の墓所。
五輪塔覆堂(ごりんとうおおいどう)は国の重文に指定されている。

詳しくは大和郡山市のホームページで。


■平城宮跡東院地区 現地説明会   2010年02月21日

2月20日(土)、平城宮跡東院地区西北部の発掘調査(平城第446次)現地説明会が行われた。

平城宮には東に張り出した部分(東西250m×南北750m)があり、この南半分が東院地区と呼ばれている。
写真の右下、赤く塗られている部分


この東院地区には、天皇の宮殿や皇太子の住まいである東宮がおかれており、光仁天皇の時には楊梅宮となったことが『続日本紀』などで知ることができる。儀式や宴会などが行われていたという。

奈良文化財研究所は、2006年度から5か年計画で、東院地区を重点的に発掘調査中。

東院地区の中枢部は今後の発掘調査に期待されるが、今回の調査地は中枢部に迫る周辺部分とも言えるところ。この地区の特殊な性格が明らかになった。

発掘地を西北部から見たところ。
こんもりしているのは、宇奈多理坐高御魂(うなたりにいますたかみむすび)神社の森。



東から。向こうに真新しい大極殿が見える。


発掘調査地でまず目に入ってきたのは、色とりどりに張られた紐。
なんと、奈良時代を通じて6回の遺構の変遷が確認されたという。
時期ごとに紐の色を変えて示すという工夫がなされていたのだ。

ところが、素人にはなかなかわかりにくい。
冒頭挨拶された、井上奈文研都城発掘調査部長は、非常に解明が難しい発掘調査で、難易度最高を100とすると、これは95くらいとおっしゃっていた。
予定よりも手間取ったそうだ。

時期ごとに色別で表した遺構図


当日の資料と説明から。


■1期(水色)710~744年 奈良時代前半
塀1・2と建物2による幅15mの東西方向の通路の北に、不明遺構を取り込む建物とそれに伴う溝1。

不明遺構は井戸か? これから詳しい調査にあたります、とのこと。

■2期(赤色)745~748年(都を恭仁京から平城へ戻した頃)
調査区南側から南の調査区外にかけて、大型の総柱建物(建物3)がある。これまで、東院西北部ではこの時期の大規模な総柱建物は見つかっていなかった。

■3期(緑色)749~758年 孝謙天皇の頃
調査区北西に総柱建物(建物4)。

■4期(紫色)759~763年 淳仁天皇の頃
調査区中央やや南よりに東西塀(塀3)と、その南北に建物。

■5期(黄緑)764~770 称徳天皇の頃
調査区北側に総柱建物。これは今回調査区の南側の381次調査で検出した3棟の大型総柱建物と中軸線を共有。

■6期(桃色)770年以降 光仁天皇の頃以降
塀4・5と塀6による幅15mの東西方向の通路が中心となる。この通路は22次調査で検出した基壇をもつ門までのびる。また塀4にとりついて建物10がある。これらは1期と類似する遺構配置。

浮かび上がる3種の土地利用パターン
①東西方向の15mの通路が形成される1期と6期
②大規模総柱建物が南北に展開する2期、3期、5期
③宮殿・官衙的な建物配置が見られる4期


遺構変遷図


東院地区は、政権が替わるたびに、大規模な建て替えなどが行われていたということのようだ。

門から続く通路は東院地区の中枢部へと続いていく可能性が高いと見られている(6期参照)。

これから、どんどん新しい発見が続くはず。目が離せない。

今回の調査地から出土した遺物。


上から、奈良時代前半軒瓦
奈良時代中頃の軒瓦        「塼」古代のレンガ
鉄釘                奈良時代後半の軒瓦



  

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