2009年                     
2010  2011  2012  2013
かぎろひNOW2014~
■マルコ山から束明神古墳(2009.8.30)
■烏土塚古墳(2009.10.12)
■桜井茶臼山古墳 現地説明会(2009.10.31)
■纏向遺跡 第162次調査 現地説明会(2009.11.15)
■纏向遺跡の古墳群(2009.11.15)
■薩摩遺跡 現地説明会(2009.11.28)

■マルコ山から束明神古墳へ  2009年08月29日

飛鳥駅前の総合案内所「飛鳥びとの館」へ納品に行く。

その後、いつものように、どこへ行こうか思案した結果、先日から、かぎろひ掲示板で話題になっていた束明神古墳のほうへ行くことに決定。

今日歩いたのは、
飛鳥駅→岩屋山古墳→マルコ山古墳→束明神古墳→岡宮天皇陵→壷阪山駅

真弓の丘から佐田の丘へというコース。

近鉄吉野線から西側の地域って、実はちょっと好き。

観光コースからはずれるのだろう、驚くほど人が少ない。
しかし、点在する古墳群は超一級。

あっけらかんとした石舞台古墳などと違い、どこか湿り気を帯びたこれらの古墳群の中を行くのは、実のところ、少し不気味でこわくもあるのだが、不思議な魅力があるのも事実。

今日もまた土地の人以外誰にも会わなかったなあ。
暑かった~。



近鉄飛鳥駅のすぐ西、岩屋山古墳。
7世紀の古墳とみられているが、高度な技術による精巧な石室がみごと。
巨大な花崗岩の切石が美しい。



マルコ山古墳。
二段築成の六角形墳と考えられている。
夏草におおわれた古墳の前には、花が飾られていた。



真弓の丘から佐田への山道。東へ開ける景色がいい。



被葬者は草壁皇子説が有力な束明神古墳と、春日神社(古墳は境内にある)。
発掘調査がされて新聞紙上をにぎわしたのは昭和59年。
奈良で住み始めた頃だったか。



宮内庁が定める岡宮天皇(草壁皇子)陵と、隣の素盞鳴命神社
屋根をたたいて降ってきた木の実と、周りの田園風景


真弓の丘を歩いてきたから、連勝を確信していたのに、負けたとはicon59
ハッ、真弓の丘を越えたのがまずかった!?


■烏土塚古墳 20091011



昨日、高野山麓から戻ってすぐ、手元の仕事が気になりながら、もっと気になる書店への納品に出かける。
王寺から生駒方面へ。途中、平群の書店に寄るが、お休み。
がっかりしないのが、ワタクシのノーテンキなところで、俄然、烏土塚(うどづか)古墳へ行きたくなる。
こんないい天気だもの、あそこからの眺めはすばらしいに違いない。

烏土塚古墳は、平群谷最大の古墳で、石舞台にも匹敵しようかという規模をもつ。

近鉄生駒線竜田川駅のすぐ西の高み、住宅のど真ん中にある。
そう、昭和45年、宅地開発の波のなかで、あやうく取り壊されそうになった。

それはならじと立ち上がった平群の住民たち。
その保存運動のおかげで一命をとりとめ、今は国の史跡になっている。
そのパワーは「平群史蹟を守る会」発足のきっかけとなり、今も地道な活動が続けられている。
http://www.m-network.com/heguri/index.html

烏土塚古墳は全長60.5mの前方後円型。
後円部の南に開く石室。巨大な石が組まれている。


鉄格子の間から薄暗い石室内へカメラを向けると、石棺が。


その石の大きさは石舞台古墳を連想してしまうほどだが、天井の高さ4.3mは石舞台に次ぐものだという。

墳丘測量図と石室実測図

   


盗掘があったものの、金銅装馬具・銀装太刀等の武具・四獣鏡などの副葬品が出土。

6世紀後半の築造だと考えられている。
こんなスケールの大きなお墓に葬られたのは、氏族の長に違いない。
見晴らしもバツグンだ。

 

西に生駒山を、東に矢田丘陵をのぞむ。

訪れる人もない石室をのぞいていると、西の空がにわかに暗くなってきてぞーっ。
石室前から撮った信貴山

 

古墳を訪ねると、どうもこういうことが多い。
祟られませんように。

トップの写真は、竜田川駅近くから見る矢田丘陵



■桜井茶臼山古墳 現地見学会  2009年11月01日


高野山麓で1泊した翌日(10月31日)、桜井茶臼山古墳現地見学会にすべりこみセーフ。
むしろこれが幸いしたようで、あまり並ぶこともなく、比較的ゆっくりと見学することができた。

写真、正面が三輪山。左に桜井茶臼山古墳がある。
墳丘からの眺めを期待していたら、樹木に覆われていて視界が遮られていたのが残念だった。

古墳の全長は200m。ほぼ南北に横たわっている(北が後円部、南が前方部)。
古墳時代前期(3世紀後半~4世紀代)に築かれたとみられる。

60年ぶりの調査となった今回、いちばんのニュースは、石室全体が朱で覆われているのが確認されたことだろう。

大型の前方後円墳であり、とても貴重な水銀朱が200㎏も使われていることから、初期ヤマト政権の王者の墓であるのは間違いないようだ。
副葬品も、今回は破片ばかりだったらしいが、60年前にはかなり出土(玉杖、勾玉、鏡など)。何度かの盗掘を受けながらの豊富なすばらしい出土品の数々から、被葬者の権力のほどを想像するのは容易だ。

これまで何度も現地説明会に出かけているが、こんなに朱が鮮やかに、しかも全面に残っているのを見るのは初めての経験!





天井石は12枚の巨岩。
石室は、板石を積み重ねて築かれている。



配布資料から



石室内には木棺が一部残っていたが、すでに取り出されていた。

何しろ、古墳が大きいので、全景は撮りにくい。
南西の国道165号線際から。
前にレンタカー屋さんがあって絵にはならないが(失礼)、なんとか前方後円墳の雰囲気はわかる。左手に三輪山がのぞく。



配布資料から、地図と調査区の図など










*桜井茶臼山古墳
桜井市外山(とび)に所在。

全長200m・後円部径110n・同高24m
1973年3月 国史跡に指定  


■纏向遺跡 現地説明会 2009年11月16日



卑弥呼の居館か、と新聞紙上をにぎわした纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の現地説明会へ。
説明会は11月14日(土)、15日(日)の両日開催。

ワタクシは昨日、15日の午後に参加。2日目だから人出もおさまっているかな、と安易に考えていたところ、見事にはずれ、ものすごい人。
地元の人の話では、人出は前日の3倍とか。

直接発掘現場へは行けず、別に設けられた待機場所に並び、順次現場へ案内される、というかたちとなった。
12時頃着いたワタクシは、約2時間待ち。
先日来の雨で足元はぬかるみ、冷気が身体に上ってきて、寒い! 寒中歩き回るのは大好きなのだが、じっとして2時間というのは過酷。
おかげで、昨夜から調子はいまいち。風邪をひいたカナ(珍しな、鬼の霍乱? 言われる前に言っておこう)。
1人で予定していたサイクリング(仕事+観光)も延期して、デスクワークに切り替える。

さて、今回注目されているのは、出土した建物遺構が大型で国内最大規模、卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀前半)とほぼ重なること。
そして、建物群の中心軸が東西に一直線に並んでいる点。
しかも、古代建築では一般的に柱間の数が奇数であるのに対して、今回の場合は東西、南北とも4間と偶数。
なんでも出雲大社には類似例があるらしく、神としてあがめられる人が入る様式なんだそう。



↑調査の遺構配置図
右の建物CとDが今回の調査地。


建物Dの復元建物案(黒田龍二神戸大学准教授による。展示パネルから。)



南北19.2m、東西12.4m、床面積238.08㎡
140畳ぐらいの広さがあるそう。
高床式で、高床2m、屋根までが10m。
下の写真の右手に見える家よりも少し高いと説明があった。



調査地は、JR桜井線巻向駅のすぐ西。
中央に電車が止まっているのが見えるカナ。



三輪山との位置関係は(建物の向こうに見えるのが三輪山)。



今回の調査地の東にはまだまだ重要な施設があると思われるが、すぐ東はJR桜井線が走る。

これからどんなふうに進めていくのだろう(纏向遺跡全体からみると調査済みは5%に過ぎない)。

期待が高まる。 


■纏向遺跡の古墳群 2009年11月18日



11月16日の新聞は、纏向(まきむく)遺跡の中枢域は“水の宮殿”だったと大きく報じていたが、すでに15日の現説待機場所に掲げられていた「纏向遺跡イメージ図」(クリックで大)のなかに、水に囲まれた祭祀施設が登場していた(1971年の調査では、運河状の構造物も発見されている)。

15日、約2時間待ちの現説の後、少々疲れてはいたが、純米吟醸酒「卑弥呼の里」をいただいて、少し元気がでたため(体が温かくなった。お酒にカンパイ!)、そこからやや西のほうに点在する古墳群を訪ねる気になった。

これらの古墳群は、箸墓古墳に先行する日本最古級の前方後円墳とみられており、纏向遺跡を考えるときにも重要な意味をもつ。
その形も、全盛期の前方後円墳とは違って前方部が短く、「纏向型前方後円墳」と呼ばれたりしている。
まずは纏向石塚古墳



墳丘から東を見ると三輪山(下左)、西を向くと二上山。目の前の運動場は纏向小学校。その向こうにこんもりしているのが纏向矢塚古墳。

 

すぐ北に見えるのが纏向勝山古墳



濠を思わせる池が西北にあり、ここからの三輪山と二上山も美しい。

  

その南西に纏向矢塚古墳



ここも墳頂に登ってみる。三輪山はこんなふうに見える。



それから南へ、田んぼのあぜ道を通って東田(ひがいだ)大塚古墳へ。
墳頂はこんなのどけさ。東を向くと、箸墓が現れ始めた。

  

そこから東へ。
ススキの向こうに、三輪山と箸墓が、何だかほほえましく見えたりして…♪



箸墓


このあと、纏向在住の先輩と合流。
池のそばの喫茶店で、古代についておしゃべり。
「このへんの人はみんな、箸墓は卑弥呼のお墓だって思ってる」とのこと。
発掘の内容にはさほど驚かないが、新聞のトップ記事となり、人がたくさん来ることにむしろビックリしているのだという。
地元の人々は、卑弥呼の時代から、代々、子々孫々に、あれは卑弥呼さんのお墓なんだよ、と語り継いできているのかもしれない、ね。

古代ロマンはなぞめいている分、想像は広がり、おしゃべりも尽きない。
すっかり暗くなって、駅へ向かう頃には、あれほどつめかかけていた人の姿はどこにもなく、ひっそりと静かな里にもどっていた。

先輩、ケーキごちそうさまっ。 



■薩摩遺跡で木樋出土2009年11月29日

 

薩摩遺跡(高取町薩摩・松山)で、取水施設の「木樋」が出土し、11月28日(土)現地説明会が行われた(写真手前が池、左下のほうに木樋が見える。向こうに走るのは近鉄吉野線)。

ワタクシは高野山麓から、南海高野線、JR和歌山線、近鉄吉野線と乗り継いで最寄りの「市尾(いちお)駅」で下車。

先日の纏向(まきむく)遺跡のフィーバーぶりとはうってかわり、今日は落ち着いた雰囲気のなかでゆっくりと見学することができた。

昨年の調査で、奈良時代~平安時代(8~12世紀)につくられたとみられる池が見つかっている所。
今回の調査では、尾根と尾根に挟まれた谷あいに築かれた堤が見つかったことから、谷の一部をせきとめて池がつくられたことが明らかになった。

さらに、ため池の水を堤の外に出すための木樋が見つかった。





木樋は、4代にわたって出土、池の底に土などが堆積するたびに、上方に付け替えられたとみられている。
写真の木樋は3代目のもので、これがいちばん残りがよかったという。
6mと9mの木樋をつなぎ合わせてある。ふたもかぶせられていたらしい。

木樋の両脇にある柱のようなものは、足場に使ったとみられる。



この上に人が立ち、棒(杭)を上下させて水を調節したらしい。

現説資料による木樋の構造



ほかにもさまざまな工夫がみられる。
たとえば、重い木樋が土の中に沈んで傾かないように、底に枕木を敷く。
2本の樋の継ぎ目には、水が漏れないように杉の皮を巻き付ける。
蓋との合わせ目に、杉の皮を巻き付ける。これは、今で言うパッキンの役割を果たしているのだそう。



国内最古のため池としては記紀にも登場する「狭山(さやま)池」(大阪府大阪狭山市)が知られる。

今日の説明は、次のように締めくくられた。
狭山池の灌漑施設は国家プロジェクトで行われたもので、規模が違う。
ここでは、古代に農業を営む村人が、同じような技術をもち、工夫しながら、池を維持管理してきたということがわかり、意義深い。


池の中から「波多里長檜前村主(はたのりちょうひのくますぐり)が池をつくった」と記された木簡が出土している。


  

copyright(c) かぎろひNOW発掘情報・古墳2009 ALL Rights Reserved
inserted by FC2 system