かぎろひNOW 2011

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かぎろひNOW2014~

■恭仁京に関連? 上狛北遺跡現地説明会  2011年01月24日

恭仁京(くにきょう)に関わる遺跡かもしれないという新聞報道を読んで、1月23日に行われた現地説明会に出かけた。

恭仁京というのは、聖武天皇が一時、平城京を離れて政治を行ったとされる都。
再び、平城京へ戻るまで、紫香楽宮(しがらきのみや)、難波宮(なにわのみや)と、落ち着きなく遷都を繰り返した時代で、恭仁京は天平12年(740)からわずか5年ばかりの短さだった。

天皇のおわす中枢の「恭仁宮」は、京都府の南端、木津川市加茂町瓶原(みかのはら)に立地、発掘調査によって大極殿の基壇や回廊、朝集殿院や南門なども確認されている。

が、都市の全域「京」については、ほとんどその実態がわからないまま。

発掘現場は、JR奈良駅から京都方面行き電車で3つ目の上狛(かみこま)駅の西北の地。

府道上狛城陽線の建設事業に伴っての発掘調査とのことだが、周辺には遺跡がいっぱい(現説資料に一部付加ークリックで拡大)。

上狛環濠集落を通って、現場へ向かう。

室町時代以来の、かなり大きな環濠集落のようで興味深い。興福寺領だったとか。












↓詳しくは現地の説明板をどうぞ(クリックで拡大)



今回の、「上狛北遺跡」遺構配置図(現説資料からー赤枠はワタクシ)。


↑調査は大きくA地区とB地区に分けて実施された。

●A地区について
上層…11世紀後半~13世紀頃の掘立柱建物跡2棟と多数の柱穴・土坑・耕作溝など
中層…奈良時代の素掘り井戸1基
下層…5世紀末~6世紀前半の竪穴式住居跡7棟



●B地区について
上層…12世紀~13世紀代のものと考えられる多数の耕作溝
中層…南北方向の溝1条、掘立柱建物跡3棟

恭仁京に関わるのではないかと注目を集めているのが、B地区中層からの検出。

見つかった溝は100m! さらに南北に延びていくと考えられている。

なが~い、そして、まっすぐ~、という溝の形状は、国家的な技術なくしては考えられない規模のようで、計画的に掘られたとみるのが妥当。

←この写真は、発掘現場に掲載されていたもの。右手にまっすぐに続いているのが検出された溝。



溝の幅は60㎝~1m、深さは一様ではなくて20㎝から80㎝。
北へいくほど浅くなっているように見えた。





この溝から、土器がわんさか見つかった。

そのほとんどが、奈良時代中頃の須恵器や土師器だという。

つまり、恭仁京時代と重なるというわけ。








さらに、軒平瓦にも注目~!

唐草文を表すこのような軒平瓦は、これまで、恭仁宮跡や平城宮跡などで出土しているのだ。





溝の西側では同時期と見られる掘立柱建物跡3棟が見つかった。



小規模であること、瓦が少ない、文字資料(木簡、墨書土器)が出土していない、などの理由で、役所とか有力者の住まいというような、中心的な建物群である可能性は低いとみられている。
倉庫のようなものだったのではないかということだ。

いずれにしても、今回見つかった遺構や出土物だけによる判断なので、今後の調査でまた新たな展開をみせるはず(ですよね?)。

ああ、目が離せない調査地がまた増えたわ~
(昨夜の、NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」おもしろかったですねえ
)


■三輪山セミナー 石野先生の話  2011年2月1日


1月29日「三輪山セミナー」(大神神社主催)で石野博信先生(香芝市二上山博物館館長)の話を聞いた。
演題は「大和・纏向遺跡、38年目の建物群」



石野先生とはずうっと昔、とある宴会で同席したことがある。
先生が橿原考古学研究所にいらした頃のこと。うわっ、かれこれン10年も前になるかぁ^^;
楽しいひとときで、ワタクシはつい「1本持って陣中見舞いに行きますね~」とか言ってしまったのを覚えている。
お酒の席とはいえ本気だったのに、結局、行く機会を逸してしまった。先生は覚えていらっしゃるはずもないが、調子のいい嘘つきになってしまった自分が今もって恥ずかしい。

また、後日のこと、かぎろひ誌主宰の龍センセが石野先生の講演を聴きに行った。

会場に入るやいなや、館の方がすっ飛んできて「こちらへどうぞ~」。
どうやら、龍センセは石野先生と間違われたらしい。

その話を聞いて、「そういえばちょっと似てる? 顔の輪郭とか(顔の)デカさとか」と、編集室では大いに盛り上がったのだった。

それから間もなく、龍センセが石野先生に取材に行く機会がおとずれた。
ご挨拶がわりに「先日、私、先生と間違われましてね」という話をしたそうだ。
そして、付け加えたという。
「似てますでしょうかね。私のほうがオトコマエだと思うんですが」
ですって。よう言うわ~

というようなわけで、石野先生に対して(勝手な)親近感を増幅させてきたような次第。
先日のNHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」で石野先生のお元気そうなお姿を拝見したばかりだが、講演会でもおかわりない様子をまのあたりにできてうれしかった~
お話もたいへん楽しいものだった♪

………………………………………………………
前フリ長すぎ~^^;

纏向遺跡で大型の建物が見つかった2年前というのは、発掘に着手してから38年目のことだという(今年で40年)。
奇しくも石野先生は38歳だったそうだ。
心の中で「ウソのサンパチやん…」と1人で突っ込んでニヤニヤしていたら、先生もきっちりおっしゃった。
「(建物群の検出は)ウソのサンパチかと思いましたがほんとうでした」

途中何度か笑いもとりながらのさすがの話術で、あっという間の90分だった。

お話の全てはとても紹介できないけれど、印象に残ったことなどを書きとめておきたい。

まずは先日のNHKスペシャルの裏話から。

纏向遺跡では運河(水路)跡が確認されている。
NHKの方がそれを撮影したいということで、纏向小学校(水路跡がある)の子どもたちに、並んで立ってもらって水路跡を示したという。それを屋上から撮影。

なのに、その場面はカットされたようで、テレビでは放映されなかった。

NHKスペシャルのあの時間、おそらく纏向小学校の生徒たちはテレビにかじりついて待っていたにちがいない。
「ボクらテレビに出るんやで」家族ともども楽しみにしていただろうことが容易に想像がつく。
ああ、それなのに、映らなかったなんて…

すばらしい番組だと思っていたけど、減点っ。
子どもの期待を裏切ったらアカン、と思う(あ、これはワタクシの思い。誤解があったらいけないので念のため)

もうひとつ、番組で放映された、銅鐸をこわすシーン。

纏向遺跡では銅鐸のかけらが見つかっている(昨年の現説で撮影)。

弥生の神まつりの象徴である銅鐸を故意にこわして、新たな神(鬼道)をまつったのではないかという仮説は説得力に富み迫力があった。

銅鐸を壊す実験はすでに数年前、東大阪の町工場の協力で行っているとのこと。
テレビ番組のために、新たに銅鐸がつくられ、あのシーンが撮られたそうだ。

発掘のきっかけは、廃坑。
40年前、九州などの炭坑の閉鎖が相次ぎ、労働者のための住宅を全国各地につくった。その1つが纏向だった。昨年、大型建物が見つかった所は当時、遺跡地図にも入っていなかったとか。


纏向遺跡の大きな特徴に、各地の土器が集まってきていることが挙げられる。


(↑↓桜井市埋蔵文化財センターで)

調査の最初は、土器のかけらを拾い集めることから始めたという。見たこともない土器が次々に出るので驚いたとか。

奈良の土器ではないのは間違いないが、どこの地域のものかがわからなくて、土器のかけらを持って全国を回られた。
それでも、うちのとは違うと言われることが多く、土地を特定できなかったという。

現在の有力な見解は、よその地の人が纏向に住みついて作った土器だというもの。もともとの地域の特徴を備えながらも、大和の土で焼いた土器であろうという。
桜井市埋蔵文化財センターの展示説明でも、「外来系土器」というふうに「系」という言葉が用いられていた。


石野先生は一抹の不安があるとおっしゃった。

どの地方系の土器なのか、一応の全体傾向を出したものの、全てを調べたわけではないというのだ。
「土器のかけらは1000箱にものぼるのですが、実は調査したのは300箱に過ぎないのです」


邪馬台国の決定的証拠が見つかっているわけではないが、卑弥呼の時代、纏向に王の宮殿があったことは確かである(←復元建物。纏向遺跡現説資料から)。

それ以前の神を否定して新しい神をつくった人物がいた。
また、その近くには、同時代に日本列島最大の墓(箸墓)があった。

邪馬台国じゃなかったとしても、大和にはすご~い国があったということは言える、と先生は力強くおっしゃった。













纏向遺跡の大型建物遺構図(桜井市埋蔵文化センターの展示から)



三輪山セミナーでの石野先生の資料から(クリックで拡大)


これ以上長くなるのもなんなので、このへんでおしまい~

お話を聞いて、長期間の地味(地道)な調査の後に、ゆっくりと成果が見えてきているんだなあというしみじみした感慨にうたれた。

そして、たくさんの人たちの協力があってこその成果だということを、声を大にして何度もおっしゃっていたのが心にのこった。予算がつかないときに、莫大な資金を援助してくださった方(名前は出すなと言われているそう)、月に1度自由に使わせてくれた東大阪の町工場のことなど、多くの方への感謝の言葉があったことを付け加えておきたい。


■飛鳥京跡苑池  現地説明会   2011年02月07日

飛鳥時代の、大規模な苑池遺構が見つかったと話題をさらったのは、もう12年も前になる(1999年)。

あのときの現地説明会にはたくさんの人がつめかけて(もちろんワタクシも)、明日香村じゅうが騒然としているように感じられたものだ。

その後、奈良県立橿原考古学研究所では調査を進め、今回は5回目。
2月6日、現地説明会へ行った。





すでに、4次にわたる調査で、下記のことがわかっている(当日配布資料より)。

◆苑池は、渡堤(わたりづつみ)で仕切られた南北2つの池からなる
◆北池からは水路が北に向かってのび、先端部分で西へ曲がる
◆南池の規模は、南北約55m、東西約60m、深さ1m
◆南池の底には石が平らに敷きつめられ、池の中には島や石造物が設置されていた
◆北池の深さは3mで、南池より深い
◆水路から、苑池の機能や性格を示す木簡が出土


↓これまでの調査区の合成写真(左)と、史跡・名勝指定範囲、今回の調査区。
[現場資料と当日配布資料から]
 

今回の調査目的は、よくわかっていない北池の規模と形態を確認することと、東側に施設があったかどうか、など。

調査地全景の航空写真(配布資料より)



調査地の場所と、宮域との位置関係(左は北東から、右は北西から)
[配布資料(左)と現場資料より]


この日は、飛鳥板葺宮伝承地が受付会場。そこで説明を聞いてから発掘現場へ移動するという流れになっていた。

調査地の位置図(配布資料から)

ワタクシは橿原神宮前から歩いて行ったので、受付場所へ行く前に発掘現場に出くわした。

受付は後回しにして先に見たいなあと思ったが、そんなこととても口に出せない。でも、ちょっとだけ立ち止まってじいっと見つめていたと思う。

すると、「先に見られますか」と声をかけてくださったのだ。
「わ、いいんですかぁ」

ほとんど見学者のいない現場でゆっくりと見せていただくことができて、ラッキーだった♪

北池(西から)



北東から見る。奥が北池。その向こうの左手に南池が広がる。彼方の小高い森は甘樫丘



砂利敷き



←東端の石組溝(いしぐみみぞ)


雨落溝(あまおちみぞ)と考えられるので、この東側には何らかの施設があったらしい。


北東のコーナーが出たことから、北池の大きさもほぼ明らかになった。
南北46~54m、東西33~36m、南北に長いかたちのようだ。

このあたりの小字名は「出水(でみず)」。
地名が表すように、地下水がわき出す場所で、それをうまく利用して庭園はつくられたのだろうという説明があった。
西にむかってなだらかに低くなっている地形。
わき水をため、またそれを流したりというような構造になっていたとみられる。
土木技術の高さがしのぼれるというもの。


ようやく、受付を済ませた第1団が入場。
やはり現説はこの熱気がなくちゃね。


南池のほうへも回ってみた。


今回の発掘調査は、「史跡・名勝飛鳥京跡苑池の保存整備活用事業」の一環。
やがて史跡公園になるという。
 


■垂仁天皇陵   2011年02月23日

春を感じさせる陽ざしと青空が広がった2月21日の、垂仁天皇陵(に比定される前方後円墳=宝来山古墳)。



近鉄橿原線の車窓からこの風景を眺めるのが好きだ。

2月14日、雪の日に車内から


何度もこの前の道は歩いているけれど、考えてみたら、周濠をぐるっとまわったことがないのに気づいた。

西側は歩けるのかどうかわからないけど、行ってみよっと♪

←これは東側、遊歩道になっている。








問題の西側だが、まあ1人歩けないことはない(柵の右側)。
ただ、高みの細道なので、要注意!


これはあまりお勧めできないわと思いつつも歩を進め、南へ回ると、やっぱ~り、行き止まり^^;







結局、1mほどの高さの岸をエイっと飛び降りてつかの間の散(探)索はおしまい(>_<)

どうやら周濠をめぐる道はないということのようで。禁足地だったらお許しを<(_ _)>
よい子のみんなは真似しないようにねっ!











でもでも、御陵の姿をさまざまに楽しむことができた。


写真上は、東から(左)と北東から
写真下は、北西から(左)と南西から


垂仁陵の陪塚(ばいちょう)か? 南を向く風景ものどかで素敵~



この後、改めて正式に参拝



田道間守(たじまもり)の墓とされる小島には、サギ(?)がいっぱい。



御陵もどうやらカワウのすみかになっているもよう。
白く見えるのは、カワウのふんらしい。


■茅原大墓古墳 現地説明会   2011年03月01日

過日、1月29日に三輪~纏向あたりを歩いたとき、茅原大墓(ちはらおおはか)古墳のそばを通りかかったら、発掘調査中のようだったったので、ちょっと気にかけていた。何か出るんじゃ?

2月25日の朝刊に「茅原大墓古墳」の見出し文字を見つけて、おおっ。
国内最古の盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)が見つかったのだという。


1月29日の、静かでのどかな茅原大墓古墳



2月26日の現地説明会場は大にぎわい



「帆立貝式」と呼ばれる前方後円墳。
後円部に比べて前方部が小さいのが特徴。
上から見ると帆立貝に似ているからだとか。なるほど、なるほど~


典型的な事例ということで、昭和57年に国史跡に指定されている。
(写真は現地の掲示から。下が北)


前方部から後円部の墳丘を見る。5段の石垣状だが、これは後の時代につくられたもので、実は後円部は3段、前方部は2段、という説明があった。

では上ってみよう♪

以前の調査写真では、墳頂には樹木が繁っている(右)



現在は


切り株だらけ~

切り株に腰かけて、しばし古代への旅。
眺望バツグン。西南を向くと大和三山がカメラにおさまる。
左のほうに、大神神社の大鳥居


この日、始発電車で三輪へ、失敗もあり思わぬ出会いもあったが、この風景を見られただけで、ここへ来た甲斐があると思った。


西方は、すぐそこに箸墓と、遠くに二上山


東はもちろん三輪山



前方部と後円部のくびれ部



出土遺物


写真上は第3次調査で、後円部2段目で見つかった円筒埴輪の列
下左は今回見つかった壺形埴輪。右は第3次出土の円筒埴輪。


お待たせしました!!
今回いちばん注目を集めた「盾持人埴輪」さん



頭部から盾面の上半分にかけての67㎝分が見つかった。
顔に赤く塗ってあるのは、魔よけの象徴だとか。

邪悪なものから古墳を守ろうとした異様な形相、と聞いても、
何だかあっけらかんと楽しく笑っているように見えません?

盾を持って甲(かぶと)をつけて威嚇している、そうだけど、
編み笠をかぶった阿波踊りの人に見えません?


ワタクシ、ひそかに、阿波踊り式埴輪、って呼ぶかも^^;



■史跡 西山古墳   2011年03月26日

ノムギ古墳現地説明会の後から行動を共にしていたおじさまとは、塚穴山古墳を見学してサヨナラ。
それからワタクシは1人で西山古墳に登ってみました。
そう、前方後方墳の中では全国最大。説明板によると全長約183m(天理市観光協会のHPによると約190m、橿原考古学研究所のデータベースでは約185m)。



↓これは北東部から見たところ



西山古墳の説明板。すでに昭和2年に国の史跡指定を受けているのですね。


墳丘は3段築成で、第1段目が前方後方形、第2段目以上は前方後円形という特異さ。
ちょっと上空から見てみましょう。




見渡す風景は想像以上のすばらしさ。西南方向に大和三山。



視点をゆっくり北へ移動させていくと二上山、さらに生駒山、その手前に横たわる矢田丘陵もよくわかます。



古墳の西のほうには周濠のなごりが。


後方部から見下ろすと(右)、これは天理大学の馬術部、でしょうか。
左は登る前にコンニチワをしてきた馬さん。




連なる東の山並みが美しい。



そのなかでも、ひときわ秀麗な山は、「大国見山」(ですよね)
うわぁ、登りた~い。
天理市観光協会のこんなページを見つけました。
http://kanko-tenri.jp/kanko-road/02-4.html

登りたい山のリストに入れておくことにしましょう。


■ノムギ古墳 現地説明会   2011年03月15日

例年、3月は、発掘調査の現地説明会ラッシュ。この12日(土)と13日(日)も複数の現説が行われました。


ワタクシ、さすがにパワーが出なくて、のろのろと動いたに過ぎず、あちこちの会場をはしごすることはできませんでした。ご了承ください。

以下は12日のノムギ古墳(天理市佐保庄町=さほのしょうちょう)現説レポートです。





↑正面の小山がノムギ古墳。これは南から見たところ。



まずは場所をおさえておきましょう。

大和(おおやまと)古墳群の北端にあります。



すぐ東に、ヒエ塚古墳。


緑色の矢印が「ノムギ古墳」、Aの県道51号線をまたいで、その東(右)側にあるのが「ヒエ塚古墳」です。ヒエ塚古墳が典型的な前方後円墳というのがわかるのに対し、ノムギ古墳のほうは不思議な形をしているでしょう。

そうなんです、ノムギ古墳は、後の時代に削られたようで、形からだけではよくわからなかったのです。
実際、以前(昭和52年)は前方後円墳と考えられていました。
平成8年、古墳の北側で、ほぼ直角に曲がる周濠の北東隅部分を検出したことにより前方後方墳であろうという可能性が高くなっていました。


今回は南側の周濠の調査です。


平成21年度、22年度と調査を実施。

その成果は下記のとおり。

botan-06後方部南側の周濠で直線的な形状をしている南西角を発見y-migi前方後方墳





後方部は一辺が約40mの正方形とみられています。


botan-06墳丘から転落したと思われる石群を検出y-migi墳丘に葺石をもっていた可能性あり



前方後方墳は、東海地方以東に多い古墳。
このあたり大和古墳群にはいくつか集中していることで知られます(上の地図を確認ください)

今回の発掘成果で、前方後方墳の形状や大和古墳群についての研究が進むことが期待されます。


botan-06いちばん新しい地層から木の柱を伴う土坑群を検出y-migi柳本飛行場関連施設か?



第二次世界大戦末期、大和海軍航空隊大和基地が柳本にあったことが知られていますが、それに関わるものだろうということです。

  


■西大寺 赤田横穴墓群   2011年03月17日

こんなのんきなことをしていていいものだろうかという罪悪感のようなものが常につきまとう…、おそらく誰もが同じだと思います。

自分にできること(少額の義捐金を送ることぐらいしかできませんが)をし、被災地の皆様に思いをいたしながらも、自分らしく今この時を一生懸命いきることが大事だと改めて思う日々です。

3月13日、西大寺赤田町1丁目の発掘現場を公開中の「赤田横穴墓群(あこだおうけつぼぐん)」へ行ってみました。

医療法人平和会吉田病院の整備事業にともなう造成工事で発見されたということです



西側から


左の高台に吉田病院が、右の建物は西大寺北小学校です。

当日の配布資料に、上空からの写真が掲載されていました。



奈良盆地の北端を限る平城山(ならやま)丘陵。その南裾には古墳時代前期後半から中期にかけてつくられた古墳がたくさん点在します。佐紀盾列(さきたた〈て〉なみ)古墳群もそうですね。

古墳時代後期になると、その数は減ります。その頃から新たにつくられ始めるのが「横穴墓」で、丘陵の斜面に横穴を掘って埋葬するものです。

奈良県内では、横穴墓の確認例は少ないようですが、例外的といっていいほど分布しているのが、奈良盆地北西の丘陵部なのだそうです。

周辺の横穴墓の分布




今回の横穴墓群の新聞記事を見て驚きましたが、実はすでに昭和58年(1983)に1号・2号墓が発見されているのだとか。

今回は新たに12基の横穴墓を発見、そのうちの7基(3~9号墓)が発掘調査されました。
平面図(掲示資料から)



5~7号墓


5号墓。陶棺が2基並ぶ。北側の陶棺は10脚3列の脚部が取り付く長大さ



7号墓から検出された小型陶棺



出土状況(配布資料より)


須恵器や土師器などの出土遺物


金銅製耳環と、8~9世紀の祭祀遺物




西大寺赤田横穴墓群は、14基以上の横穴墓から構成され、その中の9基について調査されましたが、さらに西へと広がっているだろうとみられています。

このあたり近隣の秋篠や菅原の地は、埴輪づくりに従事した土師氏が住んだとされる所。
横穴墓から見つかった土師質亀甲型陶棺は埴輪の造形とも似ており、土師氏が関わったものと推測されています。

当日配布資料の文章は、次のように締めくくられていました。

〈土師氏は〉自らを葬る棺を自らの職掌を象徴するような伝統的デザインで製作したのかもしれません。  


■山の辺の道 東乗鞍古墳   2011年03月20日


3月12日、ノムギ古墳(天理市)の現地説明会の後は、山の辺の道へ。

とにかく北へ、奈良市内へ向かって歩いていこう。途中、疲れたり暮れ始めたら、国道沿いへ出ればいい。ま、行けるところまで行ってみよう。

山の辺の道にはそんな気楽さがあります。
北へ歩き始めたのは、私のほかにはもう1人、おじさまが。
どちらからともなく笑顔でごあいさつ。
いつのまにか旧知のように、おしゃべりしながら歩いていました。

目的もないままに歩いているワタクシとは対照的に、このおじさまは「1つだけ確認したい古墳があってね」。それは東乗鞍(ひがしのりくら)古墳であるとおっしゃいます。
もう何十年も前、知人の案内で東乗鞍古墳へ行ったところ、石室が開いていた、それを確認してみたい、とのことです。

興味をかられたワタクシ、ご一緒させていただくことに。
こんな機会って、またとありませんのでね。

東乗鞍古墳


山の辺の道は何度も歩いていますが、この古墳近くは素通りばかり。
石室が開いていることも知りませんでした。

いざ、古墳へ。


竹藪の一画が切り開かれて道ができています。右は入ったすぐの様子。

おじさま「ん~、どこだったかなあ。今もわかるかなあ」

道なりに進んで行くと、導かれれるように石室の前へ出ました。「おおっ!!」
南に向いて開いています。
石室の前には石仏、榊の枝が手向けられ、どなたかが手厚くおまつりされているようです。


フラッシュをたいて撮ってみましたが、中の様子まではわかりません。
が、きちんとした石組みがみてとれます。


墳頂へも登ってみました。


後円部らしき所に凹みがあるのは盗掘孔でしょうか。


東乗鞍古墳からみた南(左)と東の方向


南正面に見えるのは、夜都伎(やとぎ)神社の森。


橿原考古学研究所ホームページの、データベースシステムで調べてみると、次のような説明がありました。
前方後円墳 全長75m 
後円径約30m 前方幅約35m 横穴式石室 家形石棺
遺物は馬具、甲冑、埴輪
http://www.kashikoken.jp/scripts/RemainsNara.cgi


ちょっと不安な、冒険心がくすぐられるようなひとときでした。
奈良まで歩こうと思っていたことなどすっかり忘れて、その後も、このおじさまと行動をともにすることになったのでした。つづく


■天理 塚穴山古墳 2011年03月22日

ノムギ古墳現地説明会→東乗鞍古墳の石室見学の続きです。

それから後も、山の辺の道で出会ったおじさまと一緒に、西山古墳とそのすぐ北にある塚穴山古墳を訪ねました。

2つの古墳は、天理高校の敷地の中にあります。気弱なワタクシ、1人では入れなかったと思います。いいの? と思いながら建物の横を通り、弓道部の練習場を抜けると、おおおっ。
第一印象は、石舞台古墳(明日香村)! 



天井石はなくなっているのですが、使われている巨石は石舞台古墳級のような感じがします。同時に、まぼろしの「條ウル神(じょううるがみ)古墳(御所市)」の一瞬見た石室を思い出しました。


羨道(せんどう・えんどう)が長いのも石舞台古墳に似ていますよね。


(※羨道…死体を埋葬する部屋[=玄室]と外部をつなぐトンネル状の道)


さらには、敷石も似ているでしょうか?


天理市のホームページで次のことがわかりました。

・径63.4mの円墳
・周濠あり
・石舞台古墳(19m)に匹敵する長さ約17mの巨大な横穴式石室
・横穴式石室の規模では、天理市最大
・築造年代は6世紀末から7世紀前半










ちなみに、玄室の規模(m)を比べてみると

        長さ      奥壁の幅
石舞台     7.6       3.4
條ウル神   7.1+α    2.4+α(αは水没のため不明部分あり)
塚穴山     7.0       3.0
             (條ウル神古墳現地説明会資料より)

3者ともよく似た大きさであることがわかりますね。

こんなすごい古墳が、あまり知られることなく放っておかれるのが不思議。
まあ、学校の敷地内とあっては、あまりドカドカと来られても困るということなのかもしれませんが。

上(奥)から見たところ



■1万5千年前の石器工房跡   011年06月05日

生駒郡三郷(さんごう)町で、1万5千年前の石器づくりの跡(勢野東せやひがし遺跡)が見つかり、出土品が展示されています(9日まで)。
6月4日、行ってみました。



幸運にも、調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所の北山峰生氏の説明を聴くこともできました。
おもに住民の方を対象にした説明会だったのか家族連れが多く、かみくだいたとてもわかりやすい内容だったことに感動しました。


新聞ではあまり大きくとりあげられなかったような気がしますが、奈良県だけではなく西日本にもほとんど例のないきわめて貴重な遺跡のようです。

展示室と説明会の内容を併せてご紹介したいと思います。以下、使用画像は、当日紹介されたものです。

1万5千年前、縄文時代のいちばん初め頃の遺跡です。
と聞いても、なにか気が遠くなりそうな話ですよね。

年表を用意してくださっていました。

勢野東遺跡は、日本列島が氷河期からようやく温暖化する頃のもの。縄文時代早期(9300年~5300年前頃)以降は、現在の気候に近くなるんですって。

頭がクラクラしそうな昔ですが、間違いなく我々のご先祖様ですよね。
現代文明が誇る技術の出発点は、もしかしたらこの頃にあるのかもしれませんゾ。
できる限りの想像をして、感謝しようではありませんか。

1万5000年ほど前のイメージ図


これは勢野東遺跡のために書かれたものではありませんが、ちょうどこんな感じをイメージしてくださいということで紹介された図です(実際は、東京都の前田耕地遺跡の景観復元図。石井礼子画。※矢印はかぎろひが加えました)

上の図の矢印のところに注目を。男性が2人何やら一生懸命してはるのは、石器づくりです。今回の遺跡は、この部分が見つかったと考えてください(家の跡などは見つかっていません)。

そうそう、勢野東遺跡の場所を確認しなくては

大和川のすぐそばですね(発掘調査は昨年4~6月、現在はグラウンド)。

図のおじさまたちは、どんな道具を作ってはりますの?


石槍。「槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)」と名付けられているようです。


この尖った石を木の棒などにくくりつけて狩猟の道具としたのですね。

縄文人に学ぶ槍先形尖頭器のつくりかた

(※あ、当日こんな説明がなされたわけではありませんので、念のため。あくまで、かぎろひ流です^^;)

◆まずは原石(ここではサヌカイト)を用意しましょう。

(これは二上山博物館蔵)


◆次に、叩き石(ハンマー)を使って原石を割ります。
割るというよりも、サヌカイトはうまく叩くと薄くはがれるので、石器の材料としてたいへん優れているのです。

こういう破片ができたら、上出来、上出来。


あっ、たまたま、割ったときに縁がとんがっていたら、そのまま使ってもOKですよicon22


◆加工
破片を鋭利に尖らします。鹿の角などを使うとベターかな。

◆木の棒に付ける。

こんなふうにね、しっかりととりつけると、はい、できあがり。






たくさんの剥片が見つかっていることからも、ここで集中的に槍先形尖頭器づくりが行われていたことがわかります。
大きなものから細かなものまで。


合計2万点近い石器が、大きく8か所にまとまって出土しました。

最も密集して出土した地点では、南へ下る緩やかな斜面に、あたかも貼り付くかのような状態
だったと言います。


出土状況アップ


見つかったのは、ほとんどが製作途中で折れたり、壊れたり、なかには折れたものどうしをくっつけたり、というようなものも。


遺跡に残っているものはほとんどが「不良品」で、おそらく完成品はここから持ち出され、木の柄につけて狩りに使われたのだろうと推測されています。納得しますよね。


実は、三郷町では旧石器時代の「峯ノ阪(みねのさか)遺跡」が見つかっていることでも知られます。
勢野東遺跡よりももっともっと古くて、25000年~26000年前より以前ということが理化学的な測定法でもわかっているんですって。
近畿地方で最古の石器群のひとつだそうですよ。

峯ノ阪遺跡出土のナイフ型石器


狩猟の道具は、だんだん進化していきます。
勢野東遺跡で見つかった槍先形尖頭器→→真ん中が突き出た有茎尖頭器→→石鏃(せきぞく=やじり)

(※上図の「何が出たのか?」を参照ください)


奈良盆地には、有茎尖頭器が比較的多く見つかっているのだそうです。

←「勢野バラタニ遺跡」(三郷町)出土








奈良県内出土の有茎尖頭器


東部山間地域からも出土しており、縄文時代草創期の人々がかなり広範囲に活動していたと考えてよさそうです。

出土品の整理はまだ始まったばかり。今後さらにいろいろなことが明らかになっていくことが期待されます。


※「三郷町のあけぼの~勢野東遺跡発掘調査成果展~」
2011年6月1~9日

会場:三郷町文化センター(生駒郡三郷町勢野西1-2-2 TEL 0745-72-4461)
主催:三郷町教育委員会
協力:奈良県橿原考古学研究所


■大伯皇女の泊瀬斎宮跡か 脇本遺跡   2011年08月22日

8月20日、脇本遺跡(桜井市脇本)の現地説明会(橿原考古学研究所)へ出かけた。

このあたりは、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」や大伯[来]皇女(おおくのひめみこ)の「泊瀬斎宮(はつせいつきのみや)」があったのではという見方が有力視されているところ。

もとは「朝倉村」だったというが、今はその地名はない(なんでこんなええ地名をなくしてしまうんやろ、とブツブツ)。

↓かろうじて「朝倉」の名前をとどめる駅、橋、小学校


住宅開発地の「朝倉台」は、歴史と新しさも感じられるいいネーミングやね。開発されてかれこれ30年か…

一帯ははすでに、25年ほど前から発掘調査が進められていて、今回は第17次。

これまでの発掘調査により、5世紀後半・6世紀後半・7世紀後半の3つの時期の大型建物や柵が見つかり、想定を裏づける大事な場所となっている。

↓今回は、国道拡幅に伴う調査。こんな道路脇。
陸橋から。あ、耳成山!


↓発掘現場にズームアップ!


東西12m、南北8mのコの字形に柱穴14基を検出


柱穴の大きさは長辺1.3~1.5mとかなり大きい。
柱は直径35~45㎝ぐらいの太さだったとみられている。
が、建物なのか柵なのかは、現時点では確定できないという。

ま、今回はこんな狭い場所であるのだが、ここで、過去の発掘実績がものをいう!

↓図をご覧くださ~い(現説資料より)。



ずっと以前(昭和59年~63年)の第1~5次調査で確認されている柱列跡とラインがピタリ一直線につながり、これが実に105m! 柱跡は2列に並ぶ。大規模な施設があったことがわかるのである。

年代も一致。7世紀後半!

ということは、そう、『日本書紀』にある天武天皇2年(673)4月の記述が思い出される。

大来皇女を天照太神宮に遣侍さむとして、泊瀬斎宮に居らしむ。是は先づ身を潔めて、稍(やや)に神に近づく所なり(「日本古典文学大系」による)。


大伯皇女が伊勢神宮へ行く前に1年4か月間、次第に神に近づくために身を清めたと書く「泊瀬斎宮」である可能性が大きくなったのだ。



発掘現場のすぐ斜め前に春日神社が鎮座。
西隣の田んぼも、秋以降調査されるということで、全貌が明らかになる日も近い!?

脇本遺跡の位置(現説資料より)

北に三輪山(みわやま)、南に外鎌山(とがまやま)に挟まれた初瀬谷に立地している。


↓現場から見ると、両山は少しのぞくだけ^^;
左は外鎌山、右が三輪山(たぶん)


何かわかりやすい写真ないかなあと探してみたら、一昨年の秋、サイクリングの途上で撮った写真が見つかった。


桜井市金屋付近から初瀬のほうを眺めたところ。
右に秀麗な外鎌山、三輪山は左手に見える山の裏側。脇本遺跡は山の間を少し入った所にある。


↓今回の出土物


脇本遺跡の発掘状況
第15次調査では、7世紀前後の大型建物跡が見つかっている)。


 


■纏向遺跡の発掘調査~卑弥呼の宮殿を探して~   2011年09月06日

早稲田大学校友会奈良県支部が創立100周年記念事業として展開される3回シリーズ「邪馬台国は大和か、九州か」の第1回目が9月4日、奈良100年会館で開かれました。

1回目は、橋本輝彦氏(桜井市教育委員会)の講演で「纏向遺跡の発掘調査~卑弥呼の宮殿を探して~」。


これまでにわかっている纏向遺跡の性格を、わかりやすく話してくださいました。

時々、吉野ヶ里を例に挙げて話されるので、この夏現地へ行ったワタクシにとってはイメージしやすく、とても楽しい2時間でした。

メモから拾ってちょっとだけ紹介してみますね。

・纏向遺跡の範囲は東西2㎞、南北1.5㎞と推定される。北は天理市の黒塚古墳ぐらいまで広がるだろうと思われ、吉野ヶ里が8つは入る規模。国内最大の遺跡。 

←平成10年(1998)、銅鏡34面が見つかった黒塚古墳(2011年5月2日撮影)。

行政区画が違うと調査の進度も温度も異なるのでやりにくいようですが、やがて協力してやっていきたいと話されました。

現在、発掘されているのは全体の5%に過ぎないことを考えると、全貌が明らかになるのは気の遠くなりそうな話ですね。ワタクシ、天上から見守ります…^^;

↓黒塚古墳から真南に見える箸墓古墳。
こうして見ると、同じ遺跡ということも、その大きさも実感できますね(2011年5月2日撮影)。


纏向遺跡からの出土物の特徴
・畑の跡が見つからない。
・農耕具が出ない。
・弥生時代の遺跡が見つからない。

珍しい出土物は 
・あぶみ
・ベニバナの花粉
・ふいごの羽口
・土器は列島各地のものが多い

↓纏向遺跡出土の外来系土器の比率(2011年1月29日、桜井市立埋蔵文化財センターで)


以上のような出土傾向からみて想像される纏向遺跡の性格とは
・農業をしない人で構成されていた
     ↓
・政治的・祭祀的・宗教的な中心地
     ↓
・各地から先進的な人々が集まっていた

現代社会ならいわば、首都・東京のような機能をもっていた?
明治維新の薩長土肥を例に挙げる先生もいらっしゃるそうです。


また、鍛冶関連の出土物が多く見つかっていることも特徴ですが、それには九州の鍛冶技術の影響が見られるとのことでした。
ふいごの羽口(先端部分)の形状が近畿と九州では違うのだとか。近畿はまるくて中に穴があいている、ちくわ状であるのに対し、九州はかまぼこ形。纏向遺跡では、かまぼこ形が見つかっているのだそうです。

鍛冶は武器をつくる技術。もし仲が悪ければそんな技術を教えるわけがない。だから、この頃の九州と近畿は敵対関係にあったのではなく、仲がよかったのだろうと話されたのが印象的でした。

邪馬台国論争が加熱して、いつのまにか仲が悪いような気がしていませんでした?
そうじゃなかったんですね。
講演終わり頃には、もう邪馬台国はどこでもいいような気さえしてきました。中国の書物に頼らざるを得ない幻の邪馬台国よりも、少しずつ成果が表れる纏向遺跡そのものがおもしろい。

そうそう、今年11月頃から、発掘調査が再開されるそうですよ。楽しみですね。


注目を集める大型建物についてのお話もありましたが、現地説明会の記事をご参照ください。

この大型建物、吉野ヶ里で復元されていたいちばん巨大な主祭殿よりも、さらに大きいのですって! 吉野ヶ里では3階建ての堂々たる建物に復元されていました。
吉野ヶ里主祭殿


※「邪馬台国は大和か、九州か」
←3回分のレジュメ(500円、受付でお求めください)

■第2回 2011年10月15日(土)14時~16時
奈良100年会館

「倭国女王ヒミコの都は 邪馬台國論」
公益財団法人大阪府文化財センター 水野正好理事長

■第3回 2011年11月19日(土)13時~17時
奈良県文化会館

「邪馬台国は大和である」
大阪府立近つ飛鳥博物館 白石太一郎館長

『邪馬台国は九州』ー邪馬台国の条件ー
学校法人旭学園 高島忠平理事長

「邪馬台国を人口から考える」
財団法人 元興寺文化財研究所 坪井清足所長
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■水野先生の「邪馬台国論」   2011年11月12日

過日、鹿鳴人から「参考までに」と、下記のようなメールを頂戴しました。

稲門会(早稲田の同窓会)奈良県支部、幹事長氏が貴女のブログ発見とよろこんで発信されていますよー。

「邪馬台国 大和か九州か」シリーズの第1回、橋本輝彦氏の講演を聴いてレポートしたワタクシのブログ記事が、主催者である早稲田大学校友会奈良県支部のエライ方のお目にとまったということのようでした。

ひえぇ、でゴザイマス。

ひとりパソコンと向き合っているときは、その向こうで読んでくださるであろう方のことはつい忘れてしまいがちなのでありますが、こういうことが起きると、ほんとうにヒヤッとしますよね。

でも喜んでくださっているということですから、素直に感謝したいと思います。ありがとうございます。

となりますとね、責任感の強い(お調子者の)ワタクシとしては、第2回目も聴かせていただいていながら、何のご報告もしていないことに、いささか負い目を感じてしまうわけでして…^^;

最終回の第3回も、来週(19日)に迫ってまいりましたので、遅ればせながら、第2回(10月15日)のご報告を簡単にしておきたいと思います。

第2回は、水野正好先生(公益財団法人大阪府文化財センター理事長)による「倭国女王ヒミコの都は 邪馬台國論」でした。


以前、水野先生の講演を聴いたのは、かれこれ10年ほども前になると思います。奈良大学の学長さんでいらっしゃったときでしょうか。

水野節、健在でした。

ご存じの方にはおなじみですが、1拍のやすみもおかないなめらかな早口はお見事というしかなく、もうそれだけで水野ワールドに誘い込まれてしまいます。

風貌もあの頃とまるで変わらず、経過したはずの10年の歳月は感じられませんでしたね。むしろ若々しくなられた? とひそかに喜んだのでした。勝手に親近感を抱いているようなところがありまして…^^;

しかも、ユーモアたっぷり、聴衆を笑わせながら、舞台の上も動かれて、飽きることがありません。
とっても楽しい、あっという間の2時間でした。

あっ、肝心の講演の内容ですよね。

水野先生の邪馬台国論は、かなり特異と言えるかもしれません。

結論から言いますと、水野先生は、卑弥呼の女王宮は現在の大和(おおやまと)神社(天理市)あたりを推定されています。

周囲を見てみますと、34面の銅鏡が出土した黒塚古墳から、直線距離にして北へ約1.3㎞、弥生時代の広大な唐古・鍵遺跡の真東約3.5㎞に位置しています。


卑弥呼の王宮は、こんな広大な宮域にあったのでは?


中国皇帝の王宮に近いのではと推測されます。







←女王宮?

魏志倭人伝には、卑弥呼を見る者は少ない、婢千人が侍ると、書いていますから、隔離された特別な聖性があったはず。







政治をとっていたと書く男弟宮と卑弥呼の王宮は並んでいて、それを平城宮の構造に合わせて復元してしまうのも、水野流。


ヒミコ王宮は三分され、北から女王宮・大極殿・朝堂と並び、
男弟宮も三分されて、内裏・大極殿・朝堂と並ぶ構造

男弟宮門(壬生門)は、上ツ道上に、
ヒミコ王宮は、大和神社境内に設けられている可能性がある。

ということです。


聴かれなかった人は一見、突拍子もないように感じられるかもしれませんが、水野先生は中国の他の資料なども引用され、説得力たっぷりに論を展開されました。

大和神社のあたり、発掘してください!!


※記事中の図は、レジュメから拝借しました。

※「邪馬台国 大和か九州か」第3回(最終回)は下記のとおり開催されます。


第3回
11月19日(土)13:30~17:00
・講演
「邪馬台国は大和」
講師=白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)

「邪馬台国は九州」
講師=高島忠平氏(佐賀女子短期大学元学長)

・シンポジウム「邪馬台国は大和か、九州か」
講演
「邪馬台国を人口から考える」
講師=坪井清足氏(財団法人元興寺文化財研究所所長)

パネリスト
白石太一郎氏
高島忠平氏
コーディネーター=坪井清足氏

奈良県立文化会館国際ホール

主催
早稲田大学校友会奈良県支部

申し込み不要、先着順
入場料無料
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■珠城山古墳群   2011年11月19日

万葉まほろば線(桜井線)巻向駅のすぐ東側、上ツ道沿いに、穴師坐兵主神社の一の鳥居がある。




まっすぐ東へゆるやかに上る道をたどると、穴師の山に鎮座する兵主神社へ達する。
のだけれど、神社までの道中がおもしろい。

←垂仁天皇纏向珠城宮跡の立派な石碑。2mほどもあろうか。



ここを過ぎるとすぐ、珠城山(たまきやま)古墳群にであう。











見上げると横穴式石室がぽっかり、これは上らずにはいられない(笑)




珠城山古墳群について


古墳時代後期の前方後円墳が3基、1号墳はほぼ失われているが、2号、3号墳は保存されて国史跡になっている。環頭太刀や勾玉など、豪華な副葬品が出土したという。

上ってみると、見晴らしのすばらしさは、想像以上。

↓北を向く。


横たわる景行陵から東への山並みが美しく、なんとものどか~(連なりののびやかな風景をご紹介したくて写真合成^^;)


↓南東にはもちろん、秀麗なこの方がおはします。三輪山。


山裾の集落も絵になること。


↓南西


奈良好きにはたまらないまほろばの風景そのもの。この日はかすんでいて、ちょっと残念。


↓真西には、はい、二上山。


気になる石室ものぞいてみよう。


明るく開放的な雰囲気がして、石室内に入ってみる気になった。
普通はやはりちょっと気味悪いので1人ではそういう行動はとらないのだけれど・・。それに、石積みの感じとか天井石(↓右下)もまぢかに見るチャンス!



入口は狭かったので、しゃがむような姿勢で入ったのに、中は広くてビックリ。
立ったままバンザイしてやっと天井につくぐらい。2mほどもあるのかな。

↓石室内から外を見る




この後、さらに東へ。



←「景行天皇纏向日代宮跡」の石碑を通り過ぎて、↓ちょっと休憩。







目的は、穴師坐兵主神社。
お参りというよりもm(_ _)m、紅葉を確かめに来た次第。11月17日、ちょっとついでに。

過日、団長さん夫婦に連れられてここへ来たとき、枝振りの見事なカエデがあることを知り、紅葉はさぞ見事だろうなと思っていたのだ。

が、まだまだ。この時期にこの緑? 常緑樹違うん? と疑うほどの緑色だった。



紅葉はまだだいぶ先、12月に入ってから、とみた。
  


■東大寺僧坊跡   2011年12月10日

東大寺僧坊跡の礎石が見つかり、12月8日、現地説明会がありました。

また雨や~^^;
でも、モンベルのレインウエアが着られると思うとどこか楽しくて、ポクポク歩いて行ってまいりました。ほんま、これスグレモノ。

場所は、東大寺大仏殿の北側になります。
北から発掘現場(矢印)を見たところ。右手に大仏殿。



僧坊は、正倉院宝物の絵図などから、大仏殿の北側の講堂を取り囲むように東、西、北(3面僧坊)にあったとみられていました。

今回の調査では、東僧坊の南端が確認されたということになります。


公共下水道の敷設工事に先立つ事前調査で見つかったということです。
↓西から見た発掘現場。3.9m間隔で礎石が3つ、東西に並んでいます。



構平面図(クリックで拡大)



↓礎石(直径約130~140㎝)、炭化部材(幅10㎝、厚さ6~8㎝、長さ137㎝以上)


↓見つかった礎石はこの部分


奈良時代当初の僧坊は平安時代の延喜17年(917)に講堂とともに全焼。
再建されるものの、治承4年(1180)平重衡による南都焼き討ちによる兵火で焼失します。
その後、鎌倉時代に再建されましたが(あの重源さんによる復興ですね)、室町時代の永正5年(1508)、またもや講堂もろとも焼失、それきりになりました。

僧坊では900人もの学僧が研鑽に励んでいたそうです。
僧坊焼失後、これらの僧侶たちはどこへ行ったのでしょうか。

あっ、「これはわかりませんから質問しないでください」と、発掘担当の若い女性がお茶目におっしゃっていました。


↓堆積層



永禄10年(1567)とは、松永久秀が三好三人衆との戦いで大仏殿を炎上させた年ですね。
焼土と炭が厚く堆積しているのが見てとれます。
歴史の彼方の出来事が急に身近に感じられてドキッとします。
この時、すでに僧坊はありませんでしたが、あってもまた焼失していたでしょうね。


出土遺物。
↓創建当初の瓦をはじめ再建時のものも。



↓僧坊跡西方、大仏殿と講堂の間の谷の底からは、大仏鋳造時のものと見られる遺物も見つかっています。


■邪馬台国 大和か九州か ③シンポジウム  2011年12月07日

早稲田大学校友会奈良県支部の創立100周年記念事業として企画された「邪馬台国 大和か九州か」シリーズ最終回となる3回目が奈良県文化会館で開催されたのは、さる11月19日のこと。

1回目、2回目と聞かせていただき、3回目もたいへん楽しみにしていました。

ずいぶん遅くなって恐縮ですが、ちょこっとレポートしておきたいと思います。



「邪馬台国は大和である」の白石太一郎先生(大阪府近つ飛鳥博物館長)、「邪馬台国は九州」の高島忠平先生(学校法人旭学園理事長)、人口から考えても「邪馬台国は九州ではありえない」の坪井清足先生(財団法人元興寺文化財研究所長)という豪華な顔ぶれ(司会は、毛利和雄NHKアナウンサー)。

2対1で、高島先生にはやや不利な状況でしたが、サービス満点の楽しいシンポジウムでした。

ワタクシ、個人的にはどちらの説をとるというほど強い思いはもっていないのですが(そこまで勉強してへんし)、“気持ちは大和説”を実感しました。学問的にというよりも、そう、高校野球の故郷応援の心境に似ているような…^^;

高島先生は単身、敵陣に乗り込んだようなかたちで、ちょっとお気の毒でした。
逆に、大和説の先生方が九州へ行かれたら、やはり分が悪いのかなあと同情してしまいましたが…

4時間にわたる白熱したシンポジウム、レジュメとメモをもとに、印象に残った部分だけになりますが、記しておきたいと思います。

……………………………………………………………………………………

大和説と九州説、年代観の違いが大きなポイントになっていると思われました。

白石先生はまず、出現期古墳と呼ばれる大型の前方後円墳について切り出されました。
分布を見ると、最大級のものは畿内、特に大和に多い。その次が吉備(岡山県)で大和の2分の1ぐらいの大きさ、瀬戸内海沿岸から北部九州にもあるが、より小さい。

大和の首長がリーダーシップをとっていた。

大型の前方後円墳が出現する年代はというと、三角縁神獣鏡の研究成果で3世紀半ば(250年~260年頃)という見方が有力。

「魏志倭人伝」によると卑弥呼が死んだのが247年から250年頃ということになり、出現期古墳は邪馬台国の時代に一致。

2009年に纏向遺跡で見つかった大型建物は邪馬台国に関連するだろう。


いっぽう、高島先生は、纏向遺跡の大型建物は5世紀頃のものではないかと反論されました。

高島先生が「邪馬台国の条件」として、特に声を大にしておっしゃったのは、卑弥呼の都は、環濠集落でなければならない、ということでした。

魏志倭人伝には「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け、武器を持った人が守っている」とある。

記述と符合するのは、吉野ヶ里など北部九州の環濠集落。


ワタクシ、この夏、吉野ヶ里へ行って、驚いたことの1つが環濠でした。
まるで鋭い谷のように切れ込む環濠、これまで見たことがありません。これほどの環濠、近畿にはないのでは。



↑左は『吉野ヶ里 邪馬台国が見えてきた』より。
右上は、2011年7月12日、吉野ヶ里で撮影
右下は、吉野ヶ里環濠の発掘調査の様子(現地でいただいたパンフより)


吉野ヶ里の環濠について、白石先生はもう少し時代が上がると見ていらっしゃいます。1~2世紀。
いっぽう、高島先生は、箸墓古墳は4世紀だと見られます。

両先生とも、お互いの話の内容にはうなずきながら、年代が違う! と。


…………………………………………………………………………………………

高島先生は、卑弥呼の墓は、小型の周溝墓であってもよい、と言われます。

魏志倭人伝に、「卑弥呼以て死す。大いに冢を作ること径百余歩」と書かれているのに、です。

中国人独特のオーバーな表現だと。そういえば、白髪三千丈とか、酒池肉林とか…が思い浮かびますね。

ここで、レジュメから高島先生の言葉を拾ってみます。

…紀元前からの中国の倭人観がある。それは、倭人は遠隔の地にあって、不老不死・長寿の薬草を産する理想郷としての捉え方である。極め付きは、マルコポーロの黄金の国「ジパング」である。
このような観点で、魏志倭人伝の資料批判が必要である。里程は魏の基準尺と合わない、戸数は伊都国・奴国とも奈良時代の人口より十倍近くになる、倭人の寿命が百歳以上とは考えられない、4から5人の妻を持つ、百余歩の墓は魏晋の理想社会の皇帝の墓がおよそ百余歩であるなどなど、これらの数字を根拠に考古学資料と直結するのは危うい。


おお、説得力あり!
とワタクシなどは思ったのですが、白石先生、ゆらぎません。
というのは、魏志倭人伝の記載を全て真に受けてはいけない、というのはすでに研究者の間では常識になっているということのようでした。

ここで、白石先生の切り返し。

卑弥呼のお墓まで、中国人独特の誇張表現だとしておきながら「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け…」という部分だけは正しいと固執するのは矛盾していませんか。


白石先生、一本! という感じでしたね。

ワタクシも心の中で快哉を叫んでおりましたicon22

場内全体もそういう感じでしたか、ね。
高島先生、ごめんなさい。


……………………………………………………

最後に、今後の課題について、3人の先生方が話されました。

坪井先生
法隆寺論争が一段落した今、邪馬台国は息の長い論争として残るだろう。

高島先生
大和か九州かという2極論争の時代ではない。山陰地方の発掘成果もあり、もっと視野を広げて考えていきたい。

白石先生
日本古代史の大きな流れのなかで考えていく必要がある。初期大和政権へどう結びつけるかが大事。


邪馬台国論争、よほどの何かが出てこない限り、決着はつきそうにありません。
つかなくても(つかないほうが)いいのではと、思ったりもしました。


今後の発掘調査を見守りたいと思います。

こんなすばらしい企画をしてくださった、早稲田大学校友会奈良県支部の皆様に感謝申し上げます。
ありがとうございました。



  
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